幸せに手が届かないから

おふざうぉーる

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「すっぱい葡萄」の心理というものは無意識に働くものです。
欲しいと思ったものが手に入らずやきもきした気分でいても、そのうち「そんなに苦労して手に入れる程のものか?」といった声が聞こえてきて、
欲しいと思ったものが汚らわしくすら見えてしまいます。
暫くするとその無意識に働いていた「すっぱい葡萄」の心理に気付き、自分の弱さだとか、欲しいものが手に入らない現状だとか、その欲しいと思った対象にすら、激しい憎悪を覚えます。
元はと言えば悪いのは自分の実力不足です。必要なものとは努力して掴み取るべきであり、それが叶わないということは自分の努力が足りないということです。

思えば、私が片時も忘れることなく何かを欲し続けたことがあったでしょうか。
大抵のものはすぐに手に入るか、でなければ諦めてしまいました。
必死になって努力をするよりも、諦めて不満を押し殺した方が楽だと思っていたのです。
本当に必要になって、もう不満を押し殺すこともできなくなったとき。必死に努力するのはその時でいい。
そうしてただ不満を享受し、努力を肝要であるとしながら、可能な限り努力をしない道を選んでいました。
努力をしないことが必ずしも悪いとは思いません。
ただ、目先の誤魔化しとして「努力しない道」を選択し、その結果に対して不満を抱くのであれば、素直に努力すべきだ、と思うのです。
目先の苦痛を避け、悪い結果を自ら呼び込むことを英断とする者はいません。
まどろみの中から目を覚まし、不愉快な現実に舞い戻るだけの力も必要なのです。

すべてを壊して自由になりたい、またはすべてを捨てて逃げ出したいと、よく考えていました。
そして、そうした思いを共有できる相手が欲しいと、思いました。
それは孤独の良さを語る相手が欲しいと思うように、矛盾したものなのかもしれません。


immortal

唯我独尊、誰よりも自分が素晴らしいと信じて疑わず、そしてそれに見合うだけの実力を持つ。
道を歩けば誰もが振り向き、誰もが羨み、憧れる。
そんな存在に憧れたって、そうそう叶うことがないなんてことは知っています。
それを叶えるために、人生というものは短すぎるのです。
当然ですが「人生が短いから」なんて言い訳をして、努力もせずに諦めるような人間になろうとは思いません。
どれだけ自分が苦しい状況に置かれようと、限られた中でベストを尽くし、誰もが認める結果を出す。
ありふれたカードだけで驚天動地の世界を導き出す。自分はそんな存在でなくてはなりません。
とは言ってみても、やはりそのためには頭脳を磨き、経験を積む必要があり、それは時間との戦いです。
一度や二度でそう簡単に満足のいく結果は得られませんが、そう何度も失敗してはいられないのです。
失敗をして落ち込むなんてことはもってのほかで、悲しむ時間があれば、それを怒りや憎しみにでも変え、そして次の機会への活力としなければなりません。
他の誰もの一歩先を進み、他の誰もが弱音を吐こうとも自分は笑顔を絶やさず、他の誰もが足を止めれば、優しく手を差し伸べてやる。
誰だって、自分を支えるだけで精一杯なのです。
だからこそ、私は自分がどれだけ辛い状況にいようとも、虚勢だけでも立ち上がり、笑顔を振りまきながら他人を支えなくてはなりません。
それは栄光を手にするために、夢を叶えるために、必ず必要となるものなのですから。
どれだけ体が痛もうとも、心が軋もうとも、そんなもの、夢すら持てない事と比べれば、ずっと素敵なことなのです。


Strength

昔から、退屈が嫌いでした。
変化はその内容の良し悪しに関わらず良い事で、どれだけ面倒なことだろうと、何も起こらないよりはずっとマシだ、と思っていたのです。
しかし、結局のところそれは「いつでも逃げ出せる」という保障があるからこそ成り立っていたのです。
本当に嫌になったのなら、飽きたゲームを捨てるように、現実の面倒事からも逃げられる。
そんなことを、頭のどこかで考えていました。
もちろん、本当にそんなことができるとは思っていませんが、ふと何もかも捨てて逃げ出したくなったとき、それができないことがひどく苦痛なのです。
そんなときは、逃げ出したい状況を作り出した周囲の環境も、その状況そのものも、そして状況を打破できない自分が、憎たらしくて仕方がなくなります。
人の上に立ちたいと思うなら、人に頼られたいと思うなら、誰よりも強くならなくてはなりません。
他の誰もが自分の仕事も満足にこなせないような状況で、私は造作なくそれを終わらせ、他人に手を差し伸べなくてはなりません。
他の誰かと同じことしかしなければ、その人より強くなれません。
逃げ出したいとか、そんなことを言っている暇なんて私には無いのです。
だからこそ、私は退屈を享受してはいけません。
そんな暇があるのなら、私はさらに努力を重ね、さらに強くならなくてはなりません。
そのためにも、苦痛となるような変化ですらも、私は甘んじて受け入れなければならないのです。
マゾヒストになれ、というのは言い過ぎかもしれませんが、私は苦痛を苦痛と感じてはいけないのです。
体の痛みはより強くなった証拠。心の痛みはより成長した証拠。
そんなことでも考えながら、誰よりも早く、誰よりも高く、私は進まなければなりません。
悩むのも、苦痛の声を上げるのも、涙を流すのも、その後でいいのです。


Conduction

しばらく文章を書かないでいると、自分がどのように文章を書いていたのかすら忘れそうになります。
そんな時はただ思いつくままに書いてみたりもするものですが、そうして書きあがった文章は他人はおろか、自分にすらも理解しがたいものだったりします。
誰かに読ませる文章を書く場合、当然ですが他人が読んでも理解できる文章を書く必要があります。
自分が知っていることを他人は知らないこともありますし、自分には解りやすい表現が他人には難解である可能性もあります。
そうした自己と他人の差異を知覚し、客観的な表現を模索し、余すことなく表現する。
そういった技術が求められるのです。
自分がどれだけ強い意見を持っていようと、それを他人に伝えられなくては意味がありません。
一通り文章を書き上げては、これは他人が読んでもも理解できるか?表現におかしな点はないか?と反芻し、客観的に読みやすい文章を作り上げなくてはなりません。
とは言ってみても、最終的にその客観を判断するのは自分の主観に過ぎないので、真の客観なんてものは自分一人ではどうしても作り上げられないものです。
真の意味での客観なんてものも考えてみれば曖昧なものですし、個人が書く以上はある程度の主観は不可欠なものです。
どれだけ客観と言う言葉を盾にしたところで、その文章を書くのはあくまで自分と言う個人であり、自分は自分でしかありません。
結局のところ、必要なのはその二つを調節するさじ加減であり、どちらか一方のみが先行しても「良い文章」は書けないものです。

昔から、教材として出される評論文が嫌いでした。
評論家の文章なんて簡略化できる文章をわざわざ面倒な表現で水増ししたような、読み手に対する配慮のない文章ばかり。
こんなものと比べれば自分のほうがずっと解りやすい文章を書ける、と何度か思うこともありました。
しかし、いざ自分が文章を書いてみると、そうした「読み手に対する配慮のない文章」に似てきてしまうのです。
それは自分の文章力が足りないのか、もしくは「客観」を正しく捉えることが出来ていないのか、自分の文章に満足できないまま、書いては消してを繰り返しました。
そうして何度も推敲を繰り返し、満足できる文章が仕上がったと思って再び見てみれば、やはり自分が嫌っていたような論文とどこか似ている。
それは自分の文章の質が低いのか?それとも自分の理解力が足りなかっただけで、嫌っていたような論文が本当は質の高いものだったのか?
今の私にそれを判断する術はありませんが、ともかく自分の理解力が足りないことを棚に上げ、他人の文章を解りにくいと批判するようなことは絶対に避けるべき事です。
そのためにも私は自分の理解力を、文章力を鍛えなければならないのです。
考えるだけで実行しなければ考えないのと同じであるように、伝えることができなければどんな意志も意味を持たないのですから。

usual



後悔しても仕方がないので反省しつつ前向きになろうとしたような感じ。
チロルチョコの銘柄を必死に調べました。
髪の塗り方なんかはもうちょっとなんとかしたい。

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